Heart to Herat

     
第102話 「お姉さんは人気歌手」







 
――ピンポーン


 
長かった夏休みも残すところあと数日と迫ったある日――

 少し遅めの昼メシを食べようと、棚からインスタントラーメンを取り出し、
お湯が沸くのを今か今かと待っていると、突然、インターホンが鳴った。

 ったく、誰だ? こんな忙しい時に……、

 と、軽く舌打ちしながら、俺はコンロの火を消し、玄関へと向かう。

 ……文句言うなよ。
 俺にとっては、食事中ってのは忙しい時間なんだよ。


 
――ガチャ


「はいはい、どなた……?」

 ドアを開けると、そこには帽子を目深に被った人がいた。
 そして、その斜め後ろには、髪が長くてちょっと冷たい眼差しの美人。

 そのあまりに不可解な来客に、
一瞬、言葉に詰まってしまった俺は、慌てて口を開く。

「どちらさんです?」

 と、俺が訊ねると、帽子の人はクスッと微笑む。

「久しぶりだね、誠君」

「……生憎、帽子で顔を隠すような知り合いはいないんだけど」

 俺がそう言うと、帽子の人はあっと声を上げて、両手で帽子を押さえる。

「いけないいけない。取るの忘れてた」

 帽子の人はテヘッと笑い、帽子を取った。


 
ふぁさ……


 途端、帽子の中に隠れていた長くて綺麗な髪がサラサラと落ちる。


「――っ!!!」


 目の前に現れたその姿に、
俺は思わず大声を上げてしまいそうになり、慌てて手で口を塞ぐ。

 そして、何度か深呼吸して落ち着いた後、
俺は抑えた声で、目の前の女性に訊ねた。


「……由綺姉、どうしてこんなところに?!」
















「はい、お茶」

「あ、ありがと♪」

「ありがとうございます」

 さっきまで沸かしていたお湯でお茶を入れ、
由綺姉とそのマネージャーである『篠塚 弥生』さんに差し出す。

 そして、俺はお茶を啜る二人の前に腰を下ろした。

 さて、この二人が何者なのかを説明する前に、
ちょっと俺の身内の説明をする必要があるな。

 俺には、『藤井 冬弥』という五つ年上の親戚がいる。
 俺やさくら達が子供の頃からの付き合いで、言ってみれば俺達の兄さんみたいなもんだ。

 優しくて、頼り甲斐がって、とても思慮深くて……、
 さくらとあかねも良く懐いていた。

 そして、今、目の前にいるこの女性。
 名前を『森川 由綺』といって、緒方プロダクションに所属する、今、話題の人気歌手だ。

 で、その冬弥兄さんと由綺姉は、実は恋人同士だったりする。
 だから、俺と由綺姉とは、それなりに面識があるのだ。

 まあ、何だ……、
 ようするに、由綺姉は冬弥兄さん同様、俺達の姉さんみたいなもんだな。

 確か、初めて会ったのは、俺達が小学六年の終わり頃、だったかな?

 冬弥兄さんにお互いを紹介された時に……、


『可愛い〜♪ ちっちゃい冬弥君みた〜い♪』


 って、抱きしめられたのは、今でもハッキリと覚えている。
 ついでに、その時、不可抗力で顔を埋めてしまった柔らかな胸の感触も、な。(爆)

「……で、何しに来たんだ?」

 お茶を啜る由綺姉に訊ねる俺。
 すると、由綺姉は子供の様に微笑み、湯呑みを置いた。

「ドラマのロケでここまで来てたの。
それで、誠君のお家がすぐ近くにあるの思い出して、
どうせだから、一緒にお昼ご飯食べようかなって思って」

「じゃあ、今は休憩中?」

「うん。私が出るシーンの撮影はもう少し後からだから、私だけね。
ホントは、理奈ちゃんも一緒に来てもらって、誠君を紹介したかったんだけど……」

 と、ここで言葉を濁す由綺姉。

 なるほど。どうやら、あの『緒方 理奈』も一緒にロケに来てるみたいだな。
 で、別のシーンの撮影があるから、こっちには一緒に来れなかったわけだ。

 むう……あの緒方 理奈に会えたかもしれなかったっのか。
 ……ちょっと残念、かな?

 と、そんな思いが顔に出てしまっていたのだろう。
 由綺姉は申し訳無さいそうに俯いてしまう。

「ゴメンね」

「そ、そんな、由綺姉が謝る必要なんかねーよ。
それに、由綺姉に会えただけでも充分嬉しいからさ」

「ふふ♪ ありがと」

 慌てる俺の姿を見て、楽しそうに微笑む由綺姉。

 ……もしかして、からかわれたかな?
 ま、いいか。相手が由綺姉なら許せる。

「そういえば、今日は冬弥兄さんは一緒じゃねーのか?」

 冬弥兄さんは、よくADのバイトをしていて、
仕事場が由綺姉と同じになることも結構あるらしい。

 だから、今回のロケも一緒なのかと思ったのだが……、
 そう訊いてしまってから、俺は後悔した。

 ……バカか、俺は。
 この場にいなかったら、一緒なわけねーだろ。

 由綺姉は今や話題沸騰の人気歌手――
 対して、冬弥兄さんは一介の大学生――

 そんな二人が、そうそう簡単に会えるわけがない。

 それでも、由綺姉と冬弥兄さんは、
寂しいのを我慢して頑張ってるのに……、

「うん……今日は、別のお仕事の方に回されちゃったみたい」

 由綺姉が寂しそうな顔をするのを見て、俺は自分の迂闊さを罵った。
 しかし、今更、気付いても遅い。

「そっか……残念だったな」

「……うん」

 リビングが重苦しい雰囲気に包まれる。

 いかんいかん。
 せっかく、由綺姉が来てくれたってのに、こんな雰囲気じゃ……、

 サッサと話題を変えちまおう。

「そうだっ! さくらとあかねも呼ぼうっ!
由綺姉に会えるって聞いたら、絶対スッ飛んで来るぜ!」

 と、俺はちょっと大袈裟に声を上げて、コードレスの受話器に手を伸ばす。

 だが……、

「あ、いいよ。そんなに時間無いから。
さくらちゃん達に会えないのは残念だけど」

 ……と、由綺姉に止められてしまった。

 そっか……それじゃ仕方ねーよな。
 となると、エリアを呼ぶのも止めといた方がいいかな。

 せっかくだから、紹介しておきたかったんだけど……、

「あの……時間も限りがありますし、
そろそろ昼食をとられた方がよろしいかと……」

 と、再び雰囲気が重くなってきたところで、
弥生さんがいいタイミングでフォローを入れてくれた。

「そ、そうだな……んじゃ、サッサとメシにしようぜ。
と言っても、カップメンくらいしかねーけど」

 誤魔化しすように笑いつつ、頭を掻く俺。

 そんな俺の言葉を聞き、由綺故はニッコリ微笑むと……、

「あの、弥生さん……」

「どうぞ。これで宜しいのですよね?」

「うん。ありがとう」

 由綺姉が皆まで言うよりも早く、
弥生さんが大きなビニール袋をテーブルの上に置く。

「由綺姉……これ、何だ?」

「あのね、誠君のことだから、きっとカップメンばかりだろうな、って思って、
スタッフの人にお弁当いっぱい貰ってきたの」

「何ぃっ!?」

 由綺の言葉が終わるか終わらないかの内に、
俺は目の前のビニール袋に手を突っ込み、中身を取り出す。

 中から出てきたのは、安っぽい紙で作られた四角い弁当箱――

 おおっ!! こいつは、ロケ弁って奴じゃねーか!!
 一度食ってみたかったんだよなっ!!

 さすがは由綺姉、気が利くぜっ!!

「では、早速……いただきまーすっ!」

 俺は割り箸を割り、猛然とロケ弁を掻き込み始めた。

「うふふ♪ 相変わらず、凄い食べっぷりだね」

「……確かに、見ていて気持ち良いくらいですね」

 と、由綺姉は楽しそうに微笑みつつ、そして、弥生さんは半ば唖然としつつ、
自分達もロケ弁に手を伸ばす。


 
がつがつがつがつ……

 
むしゃむしゃむしゃむしゃ……


「しかし、こんなにたくさん……、
20個も持って来る必要があったのですか?」


 
ぱくぱくぱくぱく……

 
もぐもぐもぐもぐ……


「大丈夫だよ。誠君、いっぱい食べるから」


 
むしゃむしゃむしゃむしゃ……

 
ぱくぱくぱくぱく……


「確かに、誠さんくらいの年頃の男性は食欲が旺盛ですが、
さすがにこの量は食べきれ……」


 
もぐもぐもぐもぐ……

 
……ごっくん。


 
――カランッ


「……ふぅ」


「んなっ!?」


 八割方食べ終えたところで箸を置き、小休止を取る俺。
 そして、俺の超早食い&大食いに驚愕する弥生さん。

「あはははははっ! やっぱり、驚いたっ!
弥生さんの驚く顔って初めてみたよ♪」

 驚いて目を見開く弥生さんを見て、声を上げて笑う由綺姉。

 そんな由綺姉を見ていると、何だかホッとする。

 よくわかんねーけど、芸能界ってのは色々と大変なところだろうからな。
 こんな風に笑える時って、あんまり無いのかもしれない。
 それに、冬弥兄さんとの事もあるしな。

 だから、由綺姉には、ほんの束の間の時間だけでもいい。
 こうして、肩の力を抜いて、笑っていてほしい。

 テレビのブラウン管の向こうにある由綺姉の笑顔ー―
 そして、今、俺の目の前にある由綺姉の笑顔――

 ……どっちも、同じ由綺姉の笑顔だ。

 でも、俺はこっちの由綺姉方が好きなんだ。

 やっぱり、由綺姉の笑顔は画面越しなんかじゃなくて、直接見るのが一番だ。
 それも、何にも飾られていない、由綺姉そのものの笑顔が、な。

「あははは♪ 弥生さんも、あんな表情するんだね♪」

「人が悪いですね、由綺さんは」

 弥生さんの驚いた顔というのは、かなり珍しいものなのだろう。

 普段はかなり控えめな性格の由綺姉が、
本当に楽しそうに、大きな声で笑っている。

 そんな由綺姉を見て、苦笑いを浮かべつつ、
弥生さんはすぐさまさっきまでの無表情に戻った。

 しかし、そこは芹香さんやセリオで無表情慣れ(?)している俺。
 ごく僅かな、弥生さんの照れた表情を、俺は見逃さなかった。

 そして、その冷たい仮面に隠された、
由綺姉への優しく、あたたかい眼差しを……、

 そっか……弥生さんは、由綺姉のことを大切に想ってくれているんだな。

 マネージャーとしても……、
 そして、一人の友人としても……、

 良かった……いいマネージャーさんじゃねーか。
 この人なら、由綺姉を安心して任せられる。

 ……って、ンな事は、今更、俺がイチイチ気にすることはーか。

 俺が気付く程度の事は、
冬弥兄さんが、とっくの昔に気付いてるに決まってるからな。

「あはは♪ 何だか笑い過ぎて疲れちゃった」

 そう言って、指で目尻を拭いながら、由綺姉は俺の方に向き直る。

「ところで、誠君……さくらちゃんとあかねちゃんとは仲良くしてる?」

 と、俺に訊ねてから、由綺姉は『あっ』と声を上げる。
 そして、相変わらずの子供のような笑顔を浮かべ……、

「ゴメンね。訊くだけ野暮だったかな?」

「あ? ああ……」

 そんな由綺姉のか可愛らしい仕草にドギマギし、
それを悟られないように平静を保ちつつ、俺は食事を再開する。

 それから、俺達は小一時間程、
他愛の無いお喋りに華を咲かせたのだった。
















「……それじゃあ、お邪魔しました」

 楽しい時間ってのは、アッと言う間に過ぎてしまうものだ。

 由綺姉の休憩時間も終わりに近付き、
ロケ現場に戻らなければならない時間になってしまった。

「ああ……次はさくらとあかねがいる時に来てくれよな。
まだまだ話したい事はたくさんあるんだからさ」

 玄関先――

 来た時同様、帽子を目深に被り、由綺姉は俺の言葉にコクコクと頷く。

「うん……それは、また今度だね。
あと、誠君の新しい恋人のエリアちゃんやフランちゃんにも会いたいな」

「あ? エリアはともかく、フランは違うだろ?」

「クスッ♪ 気付いてないんだ?
そういう事に鈍感なところも、冬弥君そっくりだね」

「……どういう意味だよ?」

「自分で考えなさい♪」

「ちぇっ……そうやってすぐお姉さんぶるんだからな」

「事実、お姉さんみたいなものでしょ?」

「まあ、そうなんだけどさ……」

 と、苦笑を浮かべ、肩を竦める俺。
 そんな俺に、由綺姉もクスクスと微笑む。

「あっ! もう行かないと……」

 腕時計を見て、ちょっと慌てる由綺姉。
 どうやら、本気で時間的にヤバくなってるみたいだな。

 名残惜しいけど、そろそろお別れかな。
 次にこうして会えるのは、いつになることやら……、

 と、正直寂しくもあったが、それは由綺姉だって同じこと。
 ましてや、由綺姉の場合は、恋人の冬弥兄さんにさえロクに会う事もできないのだ。

 ここで、俺が我侭を言うわけにはいかない。

 たがら、俺は自分が感じている寂しさを由綺姉に悟られないよう、
そっけなく見送る事にした。

 それこそ、明日にでもなれば、またすぐに会えるかのような、
ここでお別れすることなど何でも無い事のような、そんな態度で……、

「じゃあ、仕事、頑張ってな。あんまり急ぎ過ぎてコケるなよ」

「……私、そんなドジじゃないよ」

「どうだか……いつもコケる度に冬弥兄さんに抱き止められてたクセに」

「む〜」

「ほらほら。拗ねてないでサッサと行った行った」

「う、うん……じゃあ、いってきます」

「おう、いってらっしゃい」

 ぞんざいに手をヒラヒラと振って送り出す俺に、
由綺姉はちょっと困ったように微笑むと、玄関のドアノブに手を掛ける。

 だが、その時……、

「由綺さん……少々お待ち下さい」

 弥生さんが、そう言って由綺姉を呼び止めた。

 そして、由綺姉が立ち止まり、こちらを振り向いたのを確認すると、
いきなり真面目な顔つきで俺をジッと見つめてきた。

「な、何ですか……?」

 その視線の鋭さにちょっち圧倒されてしまう俺。

 うう……何か、むちゃくちゃ迫力あるぞ。
 俺、何かマズイこと言ったっけ?

「誠さん……」

「は、はい」

 切れそうなくらいに鋭い弥生さんの視線に晒され、
その緊張のせいか、俺の体が強張る。

 そして……、








「誠さん……実は、あなたにお願いしたいことがあります」








<おわり>
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