月姫 SS

     
はっちゃけ翡翠ちゃん♪







「ただいまー」

「あはー♪ 志貴さん、おかえりなさいませ〜」

「――あれ? 琥珀さん?」





 ある日のこと――

 ちょっと帰宅が遅くなった俺を出迎えてくれたのは、
翡翠ではなく、琥珀さんだった。

「ただいま、琥珀さん……ところで、翡翠は?」

 俺が有間の家から遠野家の屋敷に帰って来たあの日から、
毎日、欠かさずに、帰宅した俺を出迎えてくれた翡翠。

 どんなに俺の帰宅時間が予定とズレても、
必ず、屋敷の門の前か、または玄関で、俺を出迎えてくれた翡翠。

 だが、何故か、今日はその翡翠ではなく、琥珀さんのお出迎えである。

 ……珍しいこともあるもんだ。

 もしかして、何か別の仕事をしていて、
それの手が離せなくて、出てこられなかったのかな?

 と、思いつつ、俺は琥珀さんに、翡翠のことを訊ねる。

 すると、琥珀さんは、何やら楽しそうに微笑むと……、

「あらあら〜♪ 家に帰って来て、真っ先に出てくるのは翡翠ちゃんの名前ですか?
志貴さんったら、お出迎えは翡翠ちゃんじゃなきゃイヤなんですね〜♪」

「――へ?」

「この事を聞いたら、翡翠ちゃんは喜びますね〜♪
わたしとしては、ちょっと悔しいですけど……」

「い、いや……そんな事はないよ!
琥珀さんに出迎えて貰えて、俺は凄く嬉しいよ!」

 表情を曇らせる琥珀さんに、俺が慌ててそうフォローを入れると、
琥珀さんは頬を赤らめて、パッと明るい顔を取り戻す。

 だが、これで勘弁してくれないのが、琥珀さんという人だ。
 なにせ、人をからかって楽しむのが、これ以上無いって程に好きな人だからな。

 ……だから、この程度のフォローでは、俺を解放してはくれない。

「……でも、やっはり、翡翠ちゃんの方が良いんですよねぇ♪」

「うっ……」

 琥珀さんのツッコミに、思わず狼狽してしまう俺。

 うう……こういう時、嘘がヘタな自分が恨めしい。
 これじゃあ、琥珀さんの言葉を肯定しているようなものじゃないか。

 はあ〜……、
 やれやれ……仕方がないな。

 俺の答えを興味深々で待っている琥珀さんに、俺は軽く肩を竦めると、
正直な感想を白状することにした。

「まあ、確かに、翡翠の方がホッとするのは確かかな?
いつも、翡翠が出迎えてくれるから、そうじゃないと、何か違和感が……ね」

「あらあら……♪」

 俺の言葉を聞き、琥珀さんは口元に手を当てると、何やら悪戯っぽい表情でクスクスと微笑む。
 そして、心底楽しそうに、こう言った。

「志貴さん……そういうのを『刷り込み』って言うんですよ♪」

「――はあ?」

 琥珀さんから出た不可解な単語に、間の抜けた声を上げる俺。

 そんな俺に構わず、琥珀さんは、自分一人だけで、
納得したようにウンウンと頷きつつ、独り言を続ける。

「まあ、それも仕方ないですよね〜♪
毎朝、翡翠ちゃんの声で目が覚めて、翡翠ちゃんが用意した服を着て、
毎日、翡翠ちゃんに見送られて、翡翠ちゃんに出迎えられて、
毎晩、翡翠ちゃんにおやすみを言ってもらっていれば、
志貴さんの中が、翡翠ちゃんで一杯になっちゃうのも無理ないですよね〜♪

「あ、あははははははは……」

 琥珀さんの言葉に、引きつった笑みを浮かべる俺。

 確かに、言われてみれば、その通りである。

 遠野の屋敷に来たばかりの頃は、自分付きのメイドである翡翠の存在に、
正直、かなり戸惑ったものだが……、

 いつの間にか、俺の中で、それが当たり前のようになって……、

 ……そして、俺にとって、翡翠という存在は、とても大きなものになっていた。

「うふふふ♪ もう、志貴さんの生活に、
翡翠ちゃんは欠かせなくなっちゃってるんですね〜♪」

 と、嬉しそうに笑う琥珀さんに、俺は照れ隠しに、ポリポリと頭を掻く。

「うん……琥珀さんの言う通りかもしれないね。
でも、俺にとって大切なのは、翡翠だけじゃないよ」

「……志貴さん?」

「だって、俺には秋葉っていう大事な妹がいるからね。
それに、当然、琥珀さんだって、俺の大切な人だよ」

「も、もう……志貴さんったら、お上手なんですから」(ポッ☆)

 俺の言葉に、琥珀さんは微かに赤くなった頬を手で押さえ、照れ笑いを浮かべる。
 だが、そんな珍しい表情も、すぐにいつもの笑顔へと戻り……、

「出来れば、秋葉様にも、そのセリフを聞かせてあげて欲しいですね〜」

 と、お返しとばかりに、琥珀さんはそう言って俺をからかう。

「うっ……それは勘弁してほしいな。
さすがに、秋葉が相手だと、ちょっと照れクサいよ」

「そうですか? でも、きっと、秋葉様はお喜びになると思いますよ」

「……そうかな?」

「もちろんですよ♪ ただ……」

「――ただ?」

 そこまで言って、琥珀さんは、ちょっと困ったような表情を浮かべる。
 それにつられるように、俺が訊ね返すと……、

「ただ、その『大切な人』という中に、アルクェイドさんやシエルさんも含まれているのが、
秋葉様にとっては、ちょっと問題ですよね」

 ……サラリと痛いところを突いて来た。

 確かに、琥珀さんの言う通りかもな。
 秋葉の奴、やたらとアルクェイドとシエル先輩を毛嫌いしてるからな〜。

 出来る事なら、もう少し仲良くしてもらいたいところなんだけど……、

 と、俺が秋葉とアルクェイド達の事で苦悩している間も、琥珀さんの言葉を続く。

「さらに言いますと、晶ちゃんとか、レンちゃんとか、都古ちゃんとか……、
あとは……噂の『先生』という方でしょうか?」

 ……どうして、ここで先生の名前が出てくるかな?

 まあ、確かに、先生は俺に大きな影響を与えた人ではなるけどさ……、
 先生がいなかったら、多分、今の俺はいないんだろうし……、

 それはともかく……、

 だんだん話の内容がヤバくなってきている事だし、
そろそろ話を元に戻さないと……、

「あ、あのさ……さっきも訊いたけど、翡翠はどうしたのかな?」

 さりげなく話題転換を図ろうとする俺。
 しかし、この程度で、琥珀さんが誤魔化されてくれるわけがなく……、

「あー、露骨に話をそらしましたね〜?」

「うぐ……」

 ……その指摘に、俺は言葉を詰まらせる。

 だが、琥珀さんは、今回はこのへんで見逃してくれるようだった。

「まあ、いいです。今日はこのくらいで勘弁してあげましょう」

 そう言って、柔らかく微笑んだ琥珀さんは、屋敷の奥の方へと目を向ける。

「翡翠ちゃんなら、今は、奥の遊戯室にいます。
そこのお掃除の手が離せなくて、お出迎えに来れなかったんですよ」

「そうなんだ……じゃあ、晩御飯までには、まだちょっと時間もあるし、
翡翠の手伝いでもしてこようかな」

「本来なら、そういうのはいけないんですけどね〜」

 と、翡翠の仕事の手伝いをしようとする俺に、苦笑を浮かべる琥珀さん。

 だが、積極的に俺を止めるつもりは無いようだ。
 このへんのアバウトさが、琥珀さんならではである。

 もしも、これが秋葉だったりしたら、『遠野家の長男として……』云々という、
お決まりのセリフが飛び出してくることだろう。

「まあ、そのへんは目をつぶってよ。少し体を動かした方が、
琥珀さんの料理も、いつもより美味しく食べられるしね……」

「そういう嬉しい事を言って頂けると、お止めすることはできませんね〜♪
でも、志貴さんが手伝うのを、翡翠ちゃんが素直に了承するでしょうか?」

「ははは……ああ見えて、翡翠は頑固だからな〜。

 琥珀さんの言葉に、俺は、その時の翡翠の様子を思い浮かべてみた。

 頑なな、でも、ちょっと困ったような、その表情……、

 そんな翡翠の表情が、何だか可笑しくて、俺は声を上げて笑ってしまう。

「…………ん?」

 と、その拍子に、俺は頭上を見上げた俺は、
天井から吊るされているシャンデリアを見て、ふと、ある事に疑問を抱いた。

「あのさ、琥珀さん……」

「はい? 何でしょう?」

「いきなり変なこと訊くけど……あれって、どうやって掃除してるのな?
やっぱり、その手の業者に頼んでたりするの?」

 頭上にある豪華かつ優美な輝きを放つシャンデリアを指差し、
俺は、早速、抱いた疑問を琥珀さんに訊ねてみる。

 すると、琥珀さんは、急に話題が変わった事に、一瞬、戸惑いつつも、
すぐに俺の疑問に答えてくれた。

「もろちん、翡翠ちゃんが掃除してるんですよ」

「翡翠が? でも、それって危なくない?」

 琥珀さんのアッサリとした答えに、俺は眉をひそめた。

 そして、大きな脚立に乗って、雑巾片手にシャンデリアを拭く翡翠の姿を想像してみる。

 ハッキリ言って、かなり危なっかしい。

 翡翠って、あれで結構不器用で、そそっかしいところがあるからな……、
 もし、何かの拍子に落ちたりでもしたら……、

 と、最悪の事態まで想像してしまい、身震いする俺。

 だが、琥珀さんにとっては、そんな俺の心配は杞憂でしかないようだ。

「危険だなんて、そんなことないですよ〜。
むしろ、翡翠ちゃんほど、高いところの掃除に適した人材はいませんね」

 と、言って、何やらクスクスと笑う琥珀さん。

 翡翠が、高いところの掃除に最も適している?
 それって、どういうことたろう?

 ……もしかして、実は、翡翠は空でも飛べるのか?

 と、馬鹿馬鹿しい事を考えつつも、
翡翠が背中に天使の羽根を生やして飛んでいる姿を想像してみる。

 ……うむ、グッドだ。
 翡翠なら、天使の羽根が生えていてもおかしくないな。

 ちなみに、琥珀さんには、間違いなく子悪魔の羽根が生えていそうだが……、

「志貴さん……何か失礼なことを考えていませんか?」

「い、いえいえ……滅相も無い」

「そうですか〜?」

 慌てて誤魔化そうとする俺に、疑惑の視線を向ける琥珀さん。
 その視線が、なんだか凄く怖くて、俺はサッサと話の矛先を変える。

「そ、それはともかく……翡翠が高いところに適してるって、どういう事なんです?」

「そうですね〜……そんなに気になるのでしたら、遊戯室をこっそり覗いてみてはどうですか?
もしかしたら、『あれ』が見られるかもしれませんよ?」

「……『あれ』って?」

「はい〜♪ それは見てのお楽しみですね〜♪」

「そ、そうですか……」

 なんかもう、無性に楽しそうに微笑む琥珀さんに、
俺は、何か不気味なものを感じてしまう。

 でも、人間ってやつは、一度、好奇心を覚えてしまうと、
どしうても、それを知りたくなってしまもので……、

「それじゃあ、ちょっと行ってますね……」

「はいはい〜♪ いってらっしゃいませ〜♪」

 ……と、琥珀さんに見送られ、
俺は翡翠が掃除をしているとう、遊戯室へと向かうのだった。








 そんなこんなで……、

 ――やって来ました、遊戯室。

 遊戯室っていうのは、まあ、読んで字の如く遊ぶ為の部屋だ。
 だから、当然、この部屋には、その為の道具が色々と揃っている。

 と言っても、ゲーセンみたいなものを想像しないように。

 この部屋にあるのは、カードゲームとか、チェスとか、バックギャモンとかである。
 まさか、ビリヤード台なんてブルジョワな物まであると思わなかったが……、

 とにかく、この遊戯室は、優雅なBGMの中で、
そういった上品な遊びをするところなのだ。

 だいたい、屋敷の中に、ゲーセンみたいな部屋があったら、
それはそれで違和感ありまくりだろ?

 それに、秋葉はそういったものが嫌いだからな。
 屋敷の中に、テレビゲームなんてものがあったら、絶対に怒るだろう。

 だからこそ、琥珀さんは、部屋にあるゲーム機を必死で隠しているわけだし……、

 まあ、それはともかく……、

 その遊戯室に、俺はやって来た。
 それも、中で掃除している翡翠に気付かれないように、こっそりと……、

 目的は、翡翠が掃除している姿を覗き見ること。

 正確には、琥珀さんが言っていた『あれ』が、一体どんなのものなのかを確認し、
芽生えてしまった好奇心を満たす為だ。

「さて、と……」

 抜き足差し足で、遊戯室の入り口へと向かう俺。

 なんか、とても後ろめたいことをしてるような気分になってくるが……、

 まあ、これも好奇心を満たす為、仕方の無いことだ、と、自分に言い聞かせ、
俺は、入り口から顔半分だけを出して、こっそりと部屋の中を覗き込む。

 どうやら、もう、あらかた掃除は終わっているようだ。

 テーブルや椅子はキチンと整頓され、床に積もったホコリもすっかり綺麗になった部屋の中で、
今、翡翠は、雑巾片手に部屋の窓や調度品を拭いている。

 ……もしかしたら、ちょっと来るのが遅かったかな?

 だったら、こんなところで覗いている理由はない。
 今日のところは、例の件はあきらめよう。

 と、俺は、翡翠を手伝おうと、遊戯室の中に足を踏み入れる。

 その時……、

「――っ!!」

 銀の燭台を拭き終わり、元の位置に戻した翡翠が、部屋の中央で立ち止まり、
ジーッと上を見上げたのを見て、俺は慌てて再び身を隠した。

 その視線の先にあるのは、この部屋を照らすシャンデリアだ。

 ――いよいよか?

 と、翡翠の行動に注目する俺。

 そんなの俺の視線に気付く事なく、翡翠はバケツの中に雑巾を入れて水に濡らすと、
それを両手でギュッと絞る。

 うむ……、
 絞り方が、なんかお母さんって感じで良いな……、

 と、俺がそんな感想を抱いている間に、雑巾を絞り終えた翡翠がスックと立ち上がる。

 さあ……、
 一体、何が起こるんだ?

 息を潜め、翡翠の行動に注目する俺。
 そんな俺に気付く事なく、翡翠はスタスタと壁の方に歩み寄った。

 そして……、





 
シャカシャカシャカ……





 
……うおっ!!


 あまりに驚愕な出来事に大声を上げてしまいそうになり、俺は咄嗟に両手で口を塞いだ。

 ――そう。
 それは、あまりにも信じ難い光景であった。

 なんと……、








 
翡翠が壁を攀じ登り始めたのだっ!!

 
何の道具も使わずにっ!!

 
まるで、某スパ〇ダーマンの如くっ!!








「……勘弁してくれよ」

 メイド服の美少女が、壁を攀じ登る姿というのは、
ハッキリ言って、かなりシュールな光景だ。

 そんな光景を目の当たりにして、俺は激しい頭痛を覚える。

 ある意味、眼鏡を外して『死』を見た時の頭痛よりも強烈だぞ、これは……、

 と、頭痛に苛まれている俺が、すぐ近くにいることも知らず……、

「…………」

 翡翠はシャカシャカと壁を登って行き、天井まで辿り着くと、
そのまま天井に張り付き、部屋の中央へと這い進む。

 そして、そこにつるされたシャンデリアの側まで行くと、
その場で立ち上がり、シャンデリアについたホコリを雑巾で拭き取り始めた。

 完全に逆さまになって立っているにも関らず、何故か、スカートの裾は、めくれ上がらない。

 そんな、完膚なきまで重力を無視した姿で、
翡翠はいつもの真顔のまま、淡々と仕事をこなしている。

 その姿は、そこはかとなく怪しく……そして、怖い。

 しかも、何故か、翡翠だと妙に違和感を感じさせない事が、
さらに、その恐怖を増していく。


「――っ!!!!」


 なんかもう、見てはいけないものを見てしまった俺は、
声にならない悲鳴を上げながら、一目散にその場を走り去った。

 そして、自分の部屋に駆け込み、ベッドに飛び込むと、頭から布団被る。








 ……夢だ。
 これは、絶対に夢だ。

 きっと、レンちゃんが、寝ている俺にイタズラをして、こんな夢を見せているんだ。

 そうだ……、
 そうに違いない。

 でなければ、あの翡翠が……、

 いつも、俺を起こしてくれて――
 いつも、学校へ行く俺を見送ってくれて――
 いつも、帰って来た俺を出迎えてくれて――

 今まで、ずっと俺のことを支えてくれた、あの翡翠が……、

 人外ばかりの俺の周りで、唯一、俺の心の拠り所だった、あの翡翠が……、





 あんな……あんな非常識な真似をするわけが……、





 ……。

 …………。

 ………………。





 ……寝よう。
 こういう時は、サッサと寝てしまおう。

 そうすれば、この夢から覚めることが出来るかもしれない。

 もし、仮に、これが現実であったとしても、一刻も早く眠って、忘れてしまおう。
 全ては夢だったのだ、という事にしてしまおう。

 ……そうしなければ、やっていられない。
















 ああ、翡翠……、

 前から、何処か、他とは違う『何か』を感じてはいたけど……、
 それでも、秋葉や琥珀さんと比べたら、比較的まともだと思っていたのに……、

 まさか、ここまでとは……、








 なんかもう……、
 これからは、翡翠を見る目が、ちょっと変わりそうだよ。(泣)








<おわり>
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