To Heart SS
あなたの笑顔を……
今、私は夢を見ています。
夢といっても、メイドロボである私にとって、
それはメモリーの断片に過ぎません。
私達メイドロボは、充電中している間に、
仕事中に得た知識、経験、記憶などの学習データを整理します。
ハードディスクの最適化(デフラグ)と同じようなものです。
その時、私達メイドロボは、それらのメモリーの断片を見ます。
それが、私達にとっての『夢』なのです。
そして、今日も私は夢を見ています。
それは大好きな『あの人』との思い出……。
私の名前は『HM‐12』。
職場の皆様は、私の事を『マルチ』と呼ばれます。
当然です。それが私の商品名なのですから。
私の仕事は老人保健施設での介護。
ようするに、体の不自由なお年寄りのお世話をさせていただく仕事です。
元々、私のようなメイドロボは、老人介護を目的として作られているので、
この仕事はうってつけと言えるでしょう。
私のようなローナンバーの中古品には勿体無い仕事です。
そうでした……。
ここで初めて『あなた』にお会いしたのでしたね。
「……HM‐12型 マルチと申します。
今日から皆様と一緒に働かせて頂くことになりました。
よろしくお願いします」
仕事の初日の朝の申し送り(ミーティング)で、私は自己紹介をしました。
職員の皆様は、私を一瞥だけして、すぐに申し送りを始められました。
私は、皆様の言葉を聞き漏らさぬよう、申し送りに耳を傾けます。
前日までの入所者の状況……。
体温や血圧が高く、注意が必要な方の名前……。
使用する薬の変化……。
宿直中にあった出来事……。
……などなど。
職員の皆様の口から、次々と情報が報告されます。
そして、それが終わると、皆様はご自分の仕事へと戻って行かれました。
私も、自分に割り当てられた仕事に向かおうと思った時、
一人の男性の職員の方が、私の前に立ちました。
「俺は藤田 ヒロユキっていうんだ。。よろしくな、マルチ。
分からないことがあったら、何でも訊いてくれ」
そう言って、藤田様は私の頭を撫でました。
「……はい。よろしくお願いします」
……『藤田 ヒロユキ』様。
それが、私がこの職場に来て、最初に覚えた名前でした……。
そう……『あなた』は私に声をかけてくれました。
私に話しかけてくれました。
あたかかく、優しい微笑みを浮かべて……。
介護の仕事は予想以上に大変なものでした。
食事介助やオムツ交換などの作業は問題無いのですが、
足が不自由な方をベッドから車椅子へ移動させたり、
排泄がお一人で上手に出来ない方をトイレへ誘導したりなど、
どうしても力が必要な仕事は、私には無理でした。
そもそも、私の体は小さく力仕事に向いていないのです。
ある時、私は一人の入所者、寺井様のオムツを交換する為に、
その方を車椅子からベッドに移動させようとしていました。
オムツを交換する為には、まず横になって頂かないとならないからです。
まず、軸足を寺井様の両足の間に入れる。
そして、できるだけお互いの体を近付けて、両腕で寺井様の腰の後ろを掴む。
後は、自分の体重を少し後ろにかけつつ、背中を反らすようにして、
寺井様の体を吊り上げる。
体重の重い方を持ち上げる時の基本の技術です。
お相撲の決まり手の一つである『つり出し』と同じ原理ですね。
これを教えてくださったのは、藤田様です。
この方法のおかげで、私にもある程度の力仕事が出来るようになりました。
しかし、今回は少し無理をしてしまったようです。
寺井様のあまりの重さに、私はバランスを崩してしまったのです。
私の体かグラリと傾きました。
いけませんっ!
私はともかく、このままでは寺井様が怪我をしてしまいます。
しかし、私にはどうすることも……、
「おっと!」
「……えっ?」
不意に、私の体に掛かる負担が減りました。
体にかかっていた重みが減ったので、私はすぐに態勢を立て直しました
「危なかったな」
「……藤田様」
私と寺井様を助けてくれたのは藤田様でした。
寺井様のズボンの腰の部分を掴んで、引っ張り上げてくれたのです。
「あ、ありがとうございます」
藤田様に手伝っていただき、寺井様を無事ベッドに横にしてから、
私はお礼を言いました。
「別にお礼なんていいよ。俺達だって一人で無理なことは二人でやってるんだから。
だから、お前も無理しないで自分一人じゃ無理だと思ったら、俺達に言えよ。
ちゃんと手伝ってやるからさ」
「はい。申し訳ありません」
「よし。じゃあ、ついでにオムツ交換も手伝ってやるよ。
この人は一人だとちょっと厄介だからな」
藤田様はそう言うと、寺井様の両腕を掴みました。
そうでした。この方は、オムツを交換する時、両手で邪魔をしてくるのでした。
老人性の痴呆があるせいで、私達がオムツを交換しているのだということを
理解できていないようなのです。
藤田様が寺井様の手を掴んでくれていたおかげで、
私は楽にオムツを交換することができました。
「ありがとうございます、藤田様」
「だから礼なんかいいって。仕事なんだから。持ちつ持たれつだよ。
オムツ交換はこの人で最後だから、ちゃんと手を洗っとけよ。
俺達は特に清潔に気を配らなきゃいけないんだからな」
「はい」
『あなた』は私に色々なことを教えてくれましたね。
「マルチ、ご飯を食べさせる時は、ちゃんと飲み込んだかどうか確認しろよ」
「マルチ、大便を処理する時は、その状態も観察するんだぞ」
「マルチ、服を着せる時は、麻痺している側から袖を通すんだぞ」
介護者としての技術……。
「マルチ、俺達は出来るだけ相手の意志を尊重するんだぞ」
「マルチ、俺達は召使いじゃない。だから、自分で出来ることは自分でやらせるんだ」
「マルチ、俺達の仕事は、常に勉強だぞ」
介護者としての心構え……。
いいえ、それだけではありません。
『あなた』は私にもっと大切なことを教えてくれました。
「今日は入浴介助の日ですね」
私はその日の勤務予定表を見て、そう呟きました。
そういえば……、
私はふと気になり、勤務表を見ました。
今日は、藤田様はご出勤なさるのでしょうか?
私は勤務表に目を走らせます。
……ありました。
今日は遅番……11時からご出勤ですね。
そうですか。
今日は、藤田様と一緒にお仕事ができるんですね。
さあ、今日も一日頑張りましょう。
……何故でしょう?
藤田様がご出勤なさる日は、私の運動能力に若干の変化が現れます。
本当に微妙なのですが、運動能力のポテンシャルが上昇するのです。
それに、モーターの回転も頗る良好になります。
……何故なのでしょう?
この時、私はまだ気付いていませんでした。
藤田様がご出勤なさる日に、ボディーの調子が良くなるのは、
藤田様と一緒にお仕事ができることを嬉しいく思っているからだということに。
この時、私はまだ気付いていませんでした。
自分が、藤田様に惹かれているのだということに。
……山崎様が亡くなった。
私の笑顔を見てみたいとおっしゃっていた山崎様が亡くなった。
私の……目の前で……。
「山崎様……山崎様ぁ〜」
私は、泣いた。
ロボットなのに、涙を流して泣いた。
そんな私を、藤田様は優しく抱きしめてくれました。
そして、私に教えてくれました。
泣いてはダメだ、と……。
介護者は、入所者の皆様の前では笑顔でいなければいけない、と。
介護者は、入所者の皆様に不安を与えてはいけない、と。
しかし、私は笑うことができません。
どうすれば笑うことが出来るのか、私には分かりません。
ですが、藤田様の次の言葉で、私は全てを理解しました。
「マルチ……俺は、お前が好きだ」
……嬉しかった。
山崎様が亡くなったというのに、不謹慎だということはわかっています。
でも、嬉しかった。
『俺は、お前が好きだ』
その言葉が、私の体中に染み渡る思いでした。
それは、とてもとてもあたたかく……。
それは、とてもとても幸せな……。
この気持ちを、表に出せばいい。
この思いを、素直に表現すればいい。
そして、私は笑った。
藤田様に笑顔を見せることができたのです。
あの日、私は泣くことを覚えました。
あの日、私は笑うことを覚えました。
そして、私は人を好きになることを覚えました。
あの日、『あなた』は私に『心』をくれたのです。
それからというもの、私は『あなた』を感じられるようになりました。
『あなた』の優しさ。
『あなた』のあたたかさ。
それらをはっきりと感じられるようになりました。
『あなた』を感じれば感じるほど、
私の『心』は大きく広がっていきました。
私は『あなた』が好きです。
私は『あなた』が好きです。
私は『あなた』を……愛しています。
そして、『あなた』への思いも
強く、深く、大きくなっていきました。
幸せでした。
『あなた』と一緒にいることが。
幸せでした。
『あなた』の心を感じられることが。
ですが、『あなた』がくれた私の『心』は、
時々、不安を覚えるようになりました。
あの言葉は本当の言葉なのでしょうか?
藤田様は、本当に私が好きなのでしょうか?
メイドロボでしかない私のことを……。
私は、当直で藤田様と一緒になった時、意を決して藤田様に訊ねました。
「……あの言葉は、本当なのですか?」
「えっ?」
「あの時、藤田様がおっしゃった言葉は本当なのですか?
あなたの心からの言葉なのですか?
それとも、泣いていた私を慰める為に言ったのですか?」
私は、早口で一気にまくし立てました。
……怖い。
答えを聞くのが怖い。
私は、もう知ってしまいました。
泣くこと。
笑うこと。
不安に思うこと。
人を好きになること。
……『あなた』を愛すること。
私は、もう戻れないのです。
私は、もう『心』を持ってしまったのです。
もし、ここで『嘘』だと言われたら、私は……どうしたらよいのでしょう?
ああ……そう思っただけで涙が……。
「…………あ」
藤田様は、私の涙を指で拭いてくださいました。
そして、私に言いました。
「マルチ、あの時の俺の言葉に嘘偽りは無いぞ。
確かに、お前はメイドロボだけど、
俺にとってはもそれ以前にマルチだからな。
好きになった女の子が、たまたまメイドロボだっただけだよ」
「で、でも……」
「そんなに俺の言う事が信用できないのかよ。
じゃあ、信用できるようにしてやるよ」
藤田様はそう言って、悪戯っぽく微笑むと、
私に顔を近付けてきました。
そして……、
「…………あ」
私は唇に手を当てました。
今、確かに触れました。
ほんの一瞬でしたけど、確かに、触れ合いました。
私と藤田様の唇が……。
「ああ……」
体が熱い。
もう何も考えられません。
ただ、私の頭の中には……、
私を見つめる藤田様の優しげな瞳……。
藤田様のあたたかい微笑み……。
そして、柔らかな唇の感触……。
それだけが、頭の中で一杯になって……。
そして、藤田様のことしか考えられなくなって……。
藤田様……。
ふじたさま……。
フジタサマ……。
ヒロユキ様……。
ひろゆきさま……。
「……ヒロユキ……さん……」
そして、私の頭は真っ白にありました……。
クスッ……そうでした。
この時、私は嬉しさのあまりブレーカーが落ちてしまったんでしたね。
『あなた』には、とんだご迷惑をおかけしてしまいました。
だけど、『あなた』が悪いんですよ。
突然、あんなことをするのですから。
でも、そのおかげで、私の中の不安は一切消えてなくなりました。
そして、『あなた』への思いは、ますます強くなりました。
この頃からでしたよね。
私が『あなた』のことを『ヒロユキさん』とお呼びするようになったのは……。
「……マルチ……マルチ……」
『あなた』の声で、私は『夢』から目覚めました。
「おはよう、マルチ」
目を開けると、目の前に『あなた』のお顔がありました。
大好きな『あなた』……。
愛する『あなた』……。
私の、ご主人様……。
「おはようございます、ヒロユキさん」
私は朝の挨拶をすると、ヒロユキさんにそっとキスをしました。
フフ……あの時のお返しです。
唇を離すと、ヒロユキさんはキョトンとしていました。
当然ですよね。
私からこんなことをしたのは、初めてなのですから。
「……マルチ」
ヒロユキさんは最初は驚いていましたが、
すぐに微笑みを浮かべて、私の頭を撫でてくれました。
その心地よい感触に、私は身を委ねます。
優しい微笑み……。
あたたかい微笑み……
いつも見ていたい。
いつまでも見ていたい。
あなたの笑顔を……。
<おわり>
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